さて、今回はそろそろ、古代史のキーマンとなる、秦氏についての考察を、少しすすめようか。
先回、ヘブライ語、そしてヘブライ語の元となるアラム語の古代の言葉二つと、やまと言葉、ひらがな、カタカナとの関連を証明したが、今回は、なぜ、ユダヤ人が使うヘブライ語や、アッシリアやアケメネス朝ペルシャなどで公用語として使われた、アラム語が古来のやまと言葉に、混じっているのか、ここを考えてみたいと思う。
さて、上の図、大体、紀元前220年、始皇帝が中国を統一する前、紀元前500年ぐらいの図。弓月国についてはこのころに存在していたかは不明。だから、この図の弓月国については考えない。この図で注目してほしいのは、ササン朝ペルシャと秦。そして図の中に、ユダヤ人はどこにまぎれているかっちゅうことなのだ。
ユダヤ人と大きく くくっているが、リーゼンとしてはふたつに分けたいと思う。なぜか。古代イスラエルは二つあったからだ。
わかりやすい図があったのでのせるよ。
紀元前11世紀ごろに旧約聖書を基に神を敬虔に信仰する人々(ユダヤ人といってもいいのだが、ここでは呼ばない。ユダヤ人というより、後述の文献があるので、イスラエル人と言った方がふさわしいし、ユダヤ教と呼ぶのは、聖書を別のとらえ方で教義とし、信仰した、キリスト教が起きてからの話だと思うから)が建国したのが、古代イスラエル王国。
ちなみにイスラエル人が、はっきりとした形で歴史上に現れたのは、紀元前12世紀。まだエジプトの領土の一部に住んでいる部族にすぎなかったが、はっきりとヒエログリフに表記されているので、ほぼ間違いないだろう。
YSRYR - イスラエル。これがイスラエル人の存在を証明する最古の文献とされている。
さて、エジプトから出自して、紀元前11世紀、やっと念願の王国(古代イスラエル王国)を
建国したイスラエル人たち、紀元前928年に二つの国に分裂してしまう。それが上の図の「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」。なぜ分裂したかは、ここでは説明しない。
問題は二つに分かれた後。
<北イスラエル王国に住んでいた人々>
まず、紀元前722年には北イスラエル王国がアッシリアに攻められ滅亡し、北イスラエル王国に住むイスラエル人はアッシリアに強制移住。(アッシリア捕囚。世界史やった人は聞いたことあるはず)…
北イスラエル王国内の、10支族の中の指導者層はアッシリアに連れ去られ、中東全域に離散した。そう、例えばキルギス~弓月国…後日の話に出てくるから、おぼえといて。
ただし、10支族のなかで、「サマリア」という地方に残っていた人もいた。そこに、アッシリアの植民政策によって、「サマリア」にユダヤ教を信仰しない人が入植した。「サマリア」に住んでいた、元10支族、異民族との通婚が進み、10支族としてのアイデンティティも喪失した…として、現在のサマリア問題に、つながっていたりもする。
<南ユダ王国に住んでいた人々>
南ユダ王国も、紀元前586年に新バビロニアに攻められて、滅亡。バビロニアに強制移住させられることになった。(バビロン捕囚。これも世界史ではよく聞くね)ただし、バビロニアの中での元ユダ王国人はとても自由に生活できたらしい。
だから、紀元前538年に、アケメネス朝ペルシャが新バビロニアを滅ぼし、捕囚されてた人たちが解放されても、実際は2割ほどしか、元ユダ王国の地には帰らなかったらしい。むしろ、アケメネス朝ペルシャの中核としての役割をになったりした。
アケメネス朝ペルシャ、宗教に関しても、かなり自由であり、支配者や施政者はゾロアスター教を信仰していたと思われるが、国に住む部族に関しては宗教を押し付けなかった。だからゾロアスター教の教義は理解しつつも、アケメネス朝ペルシャにおいて、ユダヤ教の独自性を保つことができた、ということ。これが大事だね。
今日の話で一番リーゼンが言いたいこと!アケメネス朝ペルシャの国教、リーゼンの研究対象の『ゾロアスター教』が登場!!今後の日本の神道を語るとき、『ゾロアスター教』はたくさん出てくるので、覚えといてね。
さて、紀元前500年代まで来たね。次は紀元前220年、秦の中国統一までいけるといいな。
では、またね。
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