だが、当時の国民の生活実態と律令との間には、どうもギャップが。婚姻制度について、当時は一夫多妻であったのだが。
苦肉の策で、基本は 一夫一婦制とし、逃げ道として、『最初に娶ったのが妻、次からは妾と呼び、戸籍にもこのように記載して同籍させる』という手段がとられた。ちなみに、律令前は、最初の妻が『こなみ』、その他の妻は『うはなり』と称しつつも、どちらも妻であることには変わりなく、扱われていた。
律令以降も、『残念ながら』一夫一婦制は、江戸時代においても守られてしまった。江戸時代では、正妻以外は『妾奉公人』とされ、妻ではなく奉公人の地位だったが、妾がその家の跡取りを産むと正妻が嫡母・子を庶子と呼び、妾の方も優遇されていた。
つまり、一夫一妻制の上では、大問題の『浮気』。別に、実態としては問題ない仕組みなんだと、思うのだ。→あくまでリーゼンの私感
ちなみに『律令』の下での離婚。
七出、三不去といわれる理由が上げられた。
七出とは「無子、姦通、舅姑に事えず、口舌、窃盗、嫉妬、悪疾」
三不去とは「舅姑に仕え喪を持くることを経たるとき、娶るとき賤しくして後貴きに至る、帰する所無きとき」
離婚のことを『棄妻』といい、手続きは棄妻の旨を手書して届書を作り、両家の尊属近親の連署を得て届出する。→今と変わらん
興味深いのは、夫が字を書けないときは画指(人差し指の長さと関節の箇所を描くこと。指紋の代わりだね)で届出した。
『すばらしいね、昔の日本!』
だって、嫉妬されたら、離縁できたとは。なんとも男性バンザイ🙌
女性専用車両の存在に腹を立てているリーゼン、全く、現代の男性陣のなさけないこと。
名古屋市営地下鉄に、
『男性専用専用も作れ!』
と投書した、リーゼンを見習いなはれ。
さておき、明治になり、文明国家として船出した日本。イギリスあたりのキリスト教国家どもから一夫多妻制を批判され、苦肉の策で、妾の地位を奉公人から妻と同じ地位に格上げ。明治初年の親等図をみると、妻と妾が同じ親等の二親等と記されておる。まさしく『混乱状態』は、明治14年末まで続くことになる。
次回に続く。
では、またね。
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