2017年3月22日水曜日

リーゼンの休日 生来の浮気者パート4

さて、今回から、制度としての浮気者というテーマで語ってみよう。

大前提として。

『浮気はいかんのか?』

という点。

そもそも、原始社会に近づけば近づくほど、一夫一妻制から離れていく。

つまり、一部の多夫一妻制の原始社会をのぞき、一夫多妻制こそが、効率的な制度である社会もあるのでは、という点。

古来の日本。

当たり前のように、一夫多妻制であった。

魏志倭人伝では『其俗国大人皆45婦下戸或23婦=その国の習俗 貴人は妻を4~5人、庶民でも2~3人を持つ』と記されている。

いいなぁ、古代日本がいいよ…(リーゼン 心からの つぶやき)

いや、まてまて、女性陣よ。原始社会では、一夫多妻の方が、合理的なのだよ。

リーゼン考えるに…
①男子の死亡率の方が高い…あぶれオス、ならぬ あぶれメスが多い、ということ。
②狩猟生活を送る原始社会では、男性の死亡率が高い…女性は採集が基本やから、森や海に深入りしない。

あたりの理由がある。また、障害を持ち生まれるのも男性の方が多い。→このあたりは次回、染色体の話をしながら語ろうか。

では、一夫一妻制はいつからか。

大化改新(645年)、いやいや、今の教科書じゃ、『改新の詔』が出された646年、と覚えるのだが。この『改新の詔』のあと、50年ほどして出された『大宝律令』。その約15年後、『養老律令』がそれぞれ制定施行され、戸籍と戸籍登録の前提となる身分行為のことなどが定められた。この戸籍は6年ごとに作り替えられ、同じ年に班田も実施した。


だが、当時の国民の生活実態と律令との間には、どうもギャップが。婚姻制度について、当時は一夫多妻であったのだが。


苦肉の策で、基本は 一夫一婦制とし、逃げ道として、『最初に娶ったのが妻、次からは妾と呼び、戸籍にもこのように記載して同籍させる』という手段がとられた。ちなみに、律令前は、最初の妻が『こなみ』、その他の妻は『うはなり』と称しつつも、どちらも妻であることには変わりなく、扱われていた。

 

律令以降も、『残念ながら』一夫一婦制は、江戸時代においても守られてしまった。江戸時代では、正妻以外は『妾奉公人』とされ、妻ではなく奉公人の地位だったが、妾がその家の跡取りを産むと正妻が嫡母・子を庶子と呼び、妾の方も優遇されていた。


つまり、一夫一妻制の上では、大問題の『浮気』。別に、実態としては問題ない仕組みなんだと、思うのだ。→あくまでリーゼンの私感


ちなみに『律令』の下での離婚。

七出、三不去といわれる理由が上げられた。

七出とは「無子、姦通、舅姑に事えず、口舌、窃盗、嫉妬、悪疾」

三不去とは「舅姑に仕え喪を持くることを経たるとき、娶るとき賤しくして後貴きに至る、帰する所無きとき」

離婚のことを『棄妻』といい、手続きは棄妻の旨を手書して届書を作り、両家の尊属近親の連署を得て届出する。→今と変わらん

興味深いのは、夫が字を書けないときは画指(人差し指の長さと関節の箇所を描くこと。指紋の代わりだね)で届出した。


『すばらしいね、昔の日本!』


だって、嫉妬されたら、離縁できたとは。なんとも男性バンザイ🙌


女性専用車両の存在に腹を立てているリーゼン、全く、現代の男性陣のなさけないこと。


名古屋市営地下鉄に、

『男性専用専用も作れ!』

と投書した、リーゼンを見習いなはれ。


さておき、明治になり、文明国家として船出した日本。イギリスあたりのキリスト教国家どもから一夫多妻制を批判され、苦肉の策で、妾の地位を奉公人から妻と同じ地位に格上げ。明治初年の親等図をみると、妻と妾が同じ親等の二親等と記されておる。まさしく『混乱状態』は、明治14年末まで続くことになる。


次回に続く。


では、またね。


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