今回、次回で、「明治維新」について「復習してみよう。
画像ネタは「天下の」NHKより勝手に拝借。いいのいいの、リーゼン、ちゃんと受信料払ってるから(笑)
まずは、江戸時代後期、「幕藩体制の危機」を復習。
のちのちのリーゼンの話に関連したとこでは。
☆1808年、イギリスの軍艦フェートン号が、交戦国オランダの商船を探して許可なく長崎に入港。
☆危機感を覚えた幕府は1825年、異国船打払令を出した。
☆1837年、浦賀に現れたアメリカの商船、モリソン号を砲撃。
この3つの事件を注目してみてくれい。
では、見てみよう。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume023.html
この3つの事件、さらっと並べて書いてあるけども。年数考えてみてよ。この3つの事件の間に、30年ほどの時間が流れてるわけだよ。直接関係ないとは言わないけど、この3つの事件、流れで書くのは「おかしい」事件なのだよ、そもそもが。
そこで、この1800年から1850年前後にあったことを調べてみると、2つの側面がみえてくる。
①「オランダの変化」
②「アヘン戦争」
まず①「オランダの変化」…フランス革命が大いに関係しとります。
1789年 フランス革命勃発 イギリスやオランダがフランスに過干渉。
1793年 フランスがイギリス、オランダに宣戦布告。1795年、フランスはオランダ全土を制圧。なんと、ネーデルラント王国の滅亡。1799年 オランダ東インド会社の解散
<つまり、ここで、鎖国体制で唯一貿易をしていたオランダが消えてしまったことを意味し、東アジアでの覇権国オランダの凋落から、東アジアから中央アジアでのイギリスの台頭を許してしまった>
このあと、オランダ、「ナポレオンの弟 ルイを国王としたオランダ王国」「国王を廃止、フランス帝国の直轄領」を経て…
1815年 ナポレオン没落後にウィーン会議で、オランダ立憲王国として復活
この時に、イギリスの思惑としては、フランスへの緩衝材としてオランダを利用しようとしていた。そのため、東南アジア…ジャワ島、その周辺の島々がイギリスからオランダへ返還された。
なぜ、イギリスにいわば「領地征服政策の変換」があったのか。このあたりは、同時期に起こった「アヘン戦争」が大きく影響したのだろうね。
では、②「アヘン戦争」とは、どんなものだったのか。ココは次回に。
では、またね。
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