前回までの話で、徐福(呂不韋)が古代日本に渡った目的が『水銀』であったことを話したね。
今回は、前回から 残った疑問、徐福(呂不韋)が1回目、『不老不死の薬が見つからなかった』のに、始皇帝から処罰されなかった、とされる史実の疑問点について語ろうか。
少し前に出した、始皇帝 年表を今一度。
<始皇帝の足跡>
BC.221 斉の国を滅亡し,秦の始皇帝が即位した。
BC.219 秦の始皇帝が国々をまわっていたとき,徐福が上書(君主に書状を差し出 す)した。
その内容は,東海中に三神山があり,仙人が住んでいて。童男童女とともに仙人を探したいというもの。始皇帝は徐福に航海を命じた。徐福が日本に渡来した。仙薬は見つけられない。
BC.214 始皇帝が万里の長城を修復させた。
BC.213 焚書(ふんしょ)思想の弾圧をした。
BC.212 坑儒(こうじゅ)学者の生き埋めをさせた。
始皇帝が大鮫魚がいたのでたどり着けなかったと言う徐福の報告を聞く。
BC.210 徐福らは童男童女3000人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて大船団で出航した。
同時に始皇帝は研究者たちに、人工的に不老不死の薬の研究をさせ、「丹薬」なる、「不老不死」の薬を作らせる。「丹薬」とは主に水銀などの重金属を原料にした薬。つまり毒物だったので…これを飲んだ始皇帝は毒が身体に廻って崩御。
BC.208 徐福が死去。
やはり、ミスをした徐福に手ぬるい。というより徐福への応対にかなり違和感を感じるのだ。
さて、今回は…
相反しているように感じる、同時期に起こった、焚書坑儒とは何だったのか?
をまず説いてみよう。
焚書坑儒とは『中国,秦の始皇帝が,始皇 34 (前 213) 年丞相李斯の上言によって,みずからの専制支配を貫徹するために,民間にあった医学,占術,農学以外のすべての書物を焼かせ (焚書) ,翌年帝を非難する儒者 460人を咸陽で生き埋めした (坑儒) こと。』
などと、教科書なんかでは説明されているし、リーゼンもそう覚えた気がする。
しかし、いろいろ調べたところ、これがまさに『うそばかり』に近い説明なのだ。
まず『焚書』。焼いた書物は、わかりやすく現代ではどうなるかに例えると、王室、公的施設、図書館にある書物以外について、医学書、農業技術書、卜占書を除いて、他の書物を私的に持つのを禁止したにすぎない。なぜなら、この時代、怪しげな医術が広まったり、字が統一しておらず、国を統一するのに支障があったからだ。
国を統一→①これまで各所に残されていた、人心を惑わす書物をなくそう ②字体を統一しよう
それだけだ。仮に、違反した書物を持っていて処罰されたという史実は皆目ない。
次に『坑儒』。そもそも、焚書坑儒とは、始皇帝の時代から100年ほど後世に生きた司馬遷により、書かれた『史記』にかかれたもの。その『史記』には、こう書かれていた。
「於是使御史悉案問諸生,諸生傳相告引,乃自除犯禁者四百六十餘人,皆阬之咸陽」
原文を読む限り、儒家が生き埋めなどとは一切書かれておらず、諸生と書かれているだけだ。また。生き埋めとも書かれていない。『阬』と言うのは字のごとく、『拘束する』つまり、入獄や監禁という意味合いが強い。なぜ、『拘束する』輩がいたかと言えば、この時代、あやしげな医術や迷信話で、民衆から金を巻き上げる方士がいたり、堕落した生き方を指南する儒家がいたりしたからだ。
始皇帝の施策について、誤ったイメージを持たせた黒幕さんは、二人?いる。
①『史記』を書いた『司馬遷』。もともと、儒教の影響を受けた、いわば『儒家の代表』
②『史記』が書かれた時代よりもっと後世、『後漢』の時代に、勢力を広げようとした、儒家たちのプロパガンダに使われた
始皇帝についての評価は、一度クリアーしたほうがいいぞ。リーゼンが学生時代に得た知識とはかなり異なる評価をされつつあり、その証拠となる発掘も進んでいる。
そして現代の中国の学者たちの中では、始皇帝については、かなり評価が高い施策をしていた、と評価をされている。
さて、『史記』の再検討は、他の学者にまかせることにして。リーゼンが興味を持ったことだけに専念しよう。それは…
始皇帝がほんとに焼きたかったのは、なにか?
と言う点。
次回は、そのあたりを語ることにするよ。
では、またね。
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