2016年12月2日金曜日

世の中にあふれるウソ その18 古代日本 秦氏について⑦


徐福像(新宮市徐福公園)


 先回、謎掛けをした、始皇帝の足跡と 徐福との関係。どこがあやしいかを、リーゼンなりに、語ってみよう。
 前回出した表をもう一回 ご覧あれ。

<始皇帝の足跡を 徐福と からめて>
BC.221 斉の国を滅亡し,秦の始皇帝が即位した。

BC.219 秦の始皇帝が国々をまわっていたとき,徐福が上書(君主に書状を差し出      す)した。
       その内容は,東海中に三神山があり,仙人が住んでいて。童男童女とともに仙人を探したいというもの。始皇帝は徐福に航海を命じた。徐福が日本に渡来した。仙薬は見つけられない。 
BC.214 始皇帝が万里の長城を修復させた。
BC.213 焚書(ふんしょ)思想の弾圧をした。 
BC.212 坑儒(こうじゅ)学者の生き埋めをさせた。
       始皇帝が大鮫魚がいたのでたどり着けなかったと言う徐福の報告を聞く。 
BC.210 徐福らは童男童女3000人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて大船団で出航した。
       同時に始皇帝は研究者たちに、人工的に不老不死の薬の研究をさせ、「丹薬」なる、「不老不死」の薬を作らせる。「丹薬」とは主に水銀などの重金属を原料にした薬。つまり毒物だったので…これを飲んだ始皇帝は毒が身体に廻って崩御。

BC.208 徐福が死去。

<以上>

(謎…1)
 『そもそも原点…徐福、何のために渡来した?』
 これは、1番は自分の王国を作るため、でいいと思うが。それだけだと、1回目の渡航を終え、帰国した理由がわからない。理由がそれだけなら、始皇帝から必要な人材と資金をもらう事には成功しとる。だからこれだけが理由ではないと思う。

(謎…2)
 『どうして、始皇帝は徐福を信用したか』
 実の父親だから。まぁ、これにつきると思う。否定する学者の意見は多いけど、始皇帝と徐福の姓に注目すれば…

 始皇帝の姓…正式には羸(えい) いう姓を持つ。対して徐福、史記に羸氏が本当の姓である、と記されているのだ。つまり、始皇帝、『呂不韋』→『徐福』に名前を変えた時点で、父親であると認めているようなもんなのだ。
 ただしこれだけでは、説明がつかない。何しろ、最大の味方だけど、最大のライバルだからね。

(謎…3)
 『1回目、渡航に失敗?した徐福を、どうして許したのか』
 ここが、中国古代史最大のミステリーなのだ。一番有力な説は、「不老不死の薬をどうしても見つけたかったから」
 でもさ、そもそも、万里の長城の修復で、秦の財政はやばくなっていた。そんなご時世に「クジラやサメにじゃまされて…」という言い訳聞いて、始皇帝が

ゆるすわけがない!

BC219年に 徐福が旅立ってからの始皇帝、

かなり やらかしとるぞ

焚書(ふんしょ)思想の弾圧をしたり→民間にあった医薬・卜筮 (ぼくぜい) ・農事などの実用書以外の書物を焼き捨てた。坑儒(こうじゅ)始皇帝に批判的な学者約460人を坑 (あな) に埋めて殺した

徐福が帰国したの、坑儒の真っ最中やで。自分の意のままにならんことあったら思う通りに「ぼこる」(ぼこぼこにする)はず。でもそうはしていない。むしろ、もう1回行ってこいと、むしろ1回目より多くの人出と金銀を持たせている。

んなあほな!

なぜか。考えるに、結論は二つしかない。

①始皇帝、体に不安があった。または、死を目前にしていて、「不老不死の薬」を熱望していた。→だが、始皇帝の死去、5回目の地方巡業の途中なのだ。体調悪いのに、わざわざ体調を崩すような遠くの巡業に行くのか…リーゼンが結論付けたいのは、

健康に不安があるなら、旅に行かんやろ?

②1回目の徐福の渡来、失敗と言われているが、逆。実は「大成功」(と始皇帝が受け取れる隠れた成果があった)

史実とは異なるけども、リーゼンが思うに普通に考えりゃ

②だわな

今回はここまで。次は始皇帝が「大成功」と受け取った事柄を、推論していくよ。
リーゼンが注目したのはね、徐福が言った、言い訳。「クジラやサメにじゃまされて…」
なんでこんな言い訳したのか。
興味がわいた人は、推論をしてみてくれたまい。→ちなみに、推論のひとつは、古代の日本人、特に縄文人にも関係があると、ふんでるよ。

では、またね。

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