宗教的にはさ、人ひとりの命を奪えば、当然、加害者は一人分の命の代償として、一つ、自分の命を差し出すべきだろう。これが一番シンプル。特に問題も起きないだろう。古来の日本は、こちらの考えに近かったはず。
ただ、罪を償うという点で。つらい労役に就かせ、耐え忍ばせることの方が、死刑のように、一瞬で苦しみを終わらせるより、つらいのではないか…という考えが出てきた。おそらくはキリスト教的な考えだな。
人に死を与える、という点では、やはり重い原罪を背負うのだろうね、いくら動機があれども。死刑執行の時のボタン押し、三つのボタンに三人の執行人がつき、ボタンは一つが本物で二つがダミー。こうしとけば、誰が現実に死刑執行ボタンを押したかわからない、という理屈で、そうなってるそうだけど。
仕事として死刑執行ボタンを、押すなら…リーゼンならボタンは一つでいいよ。ただ、死刑執行ボタンを押す人は、特別手当が出るようだけども…リーゼンなら通常の給料以外の賃金はいらない。
結局のところ、人の生命を奪う、ということは、宗教的に言うところの原罪を背負う、ということなのだろうしね、ごまかしちゃいけないし、目をそらしちゃいけない。
原罪とは何か、リーゼンの解釈については次回。みなさまも、自分が生きる=原罪を背負う、という意味について、原罪とは何かを考えてみてくれたまい。
では、またね。
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