ところで、意外と知らないことが多い幕末。「お~い、竜馬」とかのマンガを読んでもこのあたりがぼかしてある。つまりは日本人の外交失態の連続…暗黒歴史だから、坂本竜馬だの、薩長同盟だの、ある意味無駄にハデハデなネタで覆い隠してある。これが事実なのだ。
リーゼンが振り返るに、中高と 勘違い?思い違い?してることが多いな。授業中、パラパラマンガ作りに勤しみ、教科書、読んでなかったんだな。(自分自身の問題か?)
あくまでリーゼンについてだが…思い違いをしていること。
まず、ペリーの来航。『いきなり』来た的な 印象が強いのだが、『全然』いきなりではない。というより…
まず、ペリーの来航。『いきなり』来た的な 印象が強いのだが、『全然』いきなりではない。というより…
『泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず』
ペリーの来航は1853年。だけども。
1852年に、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが「別段風説所」という意見書が出されている。
これには、後年やってくる、ペリーの来航から目的まではっきりと掲載してあり、長崎奉行を通じて幕府にわたっていた。
内容は、アメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案だった。
これを幕府の老中 水野忠邦たちはどうしたか?
にぎりつぶした(笑い)
そしてそのとおりに、ペリーは2年後、来航した。
もちろん、対策を考えておらず…老中は自分の任期が終われば何とかなる、今の政治家そのものの「事なかれ主義」だったもんだから。
なし崩しにいわれるまま、『日米和親条約』締結となったわけだ。
つまりは、幕府が倒れたのは、もちろん鎖国を解かれ、弱体化したからという側面はあったにせよ。
「ことなかれ主義」→起源をたどれば、日本古来の「言霊信仰」に原因があるんだろうけど。「縁起でもないことをいえば、悪いことが起きる」「ほっとけば、神様が助けてくれるから、大丈夫」というようなこと。
歴史的に見て、無策な政務者が国を存続させることは不可能なはずなんだけどね。
ペリーの来航に関しては、まだまだ、思い違いはある。
ペリーは何者?どこから来たの?
これについては、次回。
では、またね。
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