2017年9月15日金曜日

世の中にあふれるウソ 35 明治維新⑪

さて、いよいよペリー来航について語りまするが。

ところで。『ペリーはどうやってきたの?』

アメリカの西海岸から太平洋経由で…きたわけじゃないよ!










実はアメリカ東海岸からアフリカ大陸南部~インド…から回ってきた。
太平洋航路はすでに開かれていたのに、なぜにこの回り道を。船旅も絶対安心でない時代のこと。できれば旅程は短く、が基本なのにね。

太平洋航路を行かなかった理由は、主に3つあったと思われる。(リーゼン思うに)いろんな説があるので、機会があれば、みなさまも妄想しておくんなまし。

さて、リーゼンが感じた、主な理由。上の世界地図を見ながら説明しますと。

(1)ペリーがこの航路でないと、入手できなかったものがある。それは。

『大型蒸気船』

実はこの頃のアメリカ、大型蒸気船をそんなにたくさん持っていたわけではない。というか、この頃のアメリカが持っていた船、蒸気船ばかりではなく、帆船や手漕ぎ船などの方が圧倒的に多かった。

ペリーの任務は、はっきり言えば『恫喝による無血開国』だったので、鎖国を続けようとする江戸幕府を震え上がらせる意味でも、『大型蒸気船」こそが必要だったのだ。

ちなみに『鎖国』という言葉、幕末に出てきた言葉。19世紀に他の国から船が来るようになってからの言葉であり、江戸時代初期に行った出島政策は『鎖国』ではないからね。

さて、ペリーが日本を恫喝するために集めたかった『大型蒸気船』。アメリカ大統領からの勅命にもかかわらず、アメリカ本国艦隊から借りられたのは1隻、蒸気フリゲート船「ミシシッピ号」のみ。もっとも、アメリカ本国艦隊が持っていた蒸気船、全部で4隻しかなかったから、それもやむなし、だけども。

ミシシッピ号






4隻で日本に向かったと思いきや。なんと、アメリカのノーフォーク港を出た時は、「ミシシッピ号」1隻。単艦での出航だったわけだから。

結構、さみしい旅立ったと思われる!

アメリカ本国から、マデイラ島→セントヘレナ島→南アフリカのケープタウン→インド洋のモーリシャス→セイロン→マラッカ海峡からシンガポール→マカオ・香港

なんと、この香港で「やっと」

帆走スループ船「プリマス」と帆走補給艦「サプライ」、上海で蒸気フリゲート船「サスケハナ」
サスケハナ










と合流。

ここで。

大統領が変わり、「侵略目的の武力行使の禁止」を打ち出したのだが、その指令はペリーに届かず。飛行機がないからね。通商だとか、捕鯨船の給油地確保だとか言ってるひとがいるけど、清国のように、アメリカによる侵略、植民地化をもくろんでいたのは明らか。それを思えば、日本の幕末、植民地にされず、乗り切ったのは、奇跡とも言える。

これで船団を整え、いよいよペリー、日本へ向かいまする。

二つ目の理由は、次回。

では、またね。




  


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