ところで。『ペリーはどうやってきたの?』
アメリカの西海岸から太平洋経由で…きたわけじゃないよ!
実はアメリカ東海岸からアフリカ大陸南部~インド…から回ってきた。
太平洋航路はすでに開かれていたのに、なぜにこの回り道を。船旅も絶対安心でない時代のこと。できれば旅程は短く、が基本なのにね。
太平洋航路を行かなかった理由は、主に3つあったと思われる。(リーゼン思うに)いろんな説があるので、機会があれば、みなさまも妄想しておくんなまし。
さて、リーゼンが感じた、主な理由。上の世界地図を見ながら説明しますと。
(1)ペリーがこの航路でないと、入手できなかったものがある。それは。
『大型蒸気船』
実はこの頃のアメリカ、大型蒸気船をそんなにたくさん持っていたわけではない。というか、この頃のアメリカが持っていた船、蒸気船ばかりではなく、帆船や手漕ぎ船などの方が圧倒的に多かった。
ペリーの任務は、はっきり言えば『恫喝による無血開国』だったので、鎖国を続けようとする江戸幕府を震え上がらせる意味でも、『大型蒸気船」こそが必要だったのだ。
ちなみに『鎖国』という言葉、幕末に出てきた言葉。19世紀に他の国から船が来るようになってからの言葉であり、江戸時代初期に行った出島政策は『鎖国』ではないからね。
さて、ペリーが日本を恫喝するために集めたかった『大型蒸気船』。アメリカ大統領からの勅命にもかかわらず、アメリカ本国艦隊から借りられたのは1隻、蒸気フリゲート船「ミシシッピ号」のみ。もっとも、アメリカ本国艦隊が持っていた蒸気船、全部で4隻しかなかったから、それもやむなし、だけども。
ミシシッピ号 |
4隻で日本に向かったと思いきや。なんと、アメリカのノーフォーク港を出た時は、「ミシシッピ号」1隻。単艦での出航だったわけだから。
結構、さみしい旅立ったと思われる!
アメリカ本国から、マデイラ島→セントヘレナ島→南アフリカのケープタウン→インド洋のモーリシャス→セイロン→マラッカ海峡からシンガポール→マカオ・香港
なんと、この香港で「やっと」
帆走スループ船「プリマス」と帆走補給艦「サプライ」、上海で蒸気フリゲート船「サスケハナ」
サスケハナ |
と合流。
ここで。
大統領が変わり、「侵略目的の武力行使の禁止」を打ち出したのだが、その指令はペリーに届かず。飛行機がないからね。通商だとか、捕鯨船の給油地確保だとか言ってるひとがいるけど、清国のように、アメリカによる侵略、植民地化をもくろんでいたのは明らか。それを思えば、日本の幕末、植民地にされず、乗り切ったのは、奇跡とも言える。
これで船団を整え、いよいよペリー、日本へ向かいまする。
二つ目の理由は、次回。
では、またね。
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