今日は土曜日。最近の記事は、リーゼン編集長の研究対象に非常に近い?ネタが多く、力入りまくりなので、読者の方も、疲れると思うので、しばらく土曜日は、ゆるく県名について調べちゃうゾォと思いましてね…ちょこちょこと調べて、さっと載せて感想書いて、さもありなん、いとおかし、47回も続く…『ゆくネタの流れは たえずして もとのネタに あらず…だって、忘れちゃうもん』といった、非常にリーゼン的な記事だな、まぁ、冬は土曜日、忙しいしストックしとくのも大切やから、まぁ、よろしくですᕦ(ò_óˇ)ᕤ
北海道庁で検索してみたよ。
北海道庁で検索してみたよ。
北海道の名前について
北海道の「道(どう)」って何ですか?
「道(どう)」というのは、律令国家りつりょうこっか※1の地方行政の基本区分です。起源きげんは古代中国で、それにならって日本でも天武朝てんむちょう(7世紀後半)に成立しました。
みやこに近い5つの国(山城やましろ、大和やまと、河内かわち、和泉いずみ、摂津せっつ)を畿内きない※2五カ国とし、それ以外を7道(東海道・東山とうさん道・北陸道・山陰さんいん道・山陽道・南海道・西海さいかい道)に分けました。それぞれの「道(どう)」には、いくつもの「国」がありました。たとえば東海道※3には、三河国みかわのくに、遠江国とおとうみのくに、駿河国するがのくになどが含ふくまれていました。また、それぞれの「道(どう)」ごとに、国府こくふを連ねる官道かんどうが、みやこから放射状ほうしゃじょうに設けられていました。
つまり、五畿七道ごきしちどうの「道(どう)」は、「国」をいくつも含むような広い地域ちいきであり、また「道(みち)」でもあったのです。
ところで、五畿七道のなかに「北海道」がないことにお気づきでしょうか。
※1 7世紀後半から9世紀頃までの、天皇を中心とした体系的な中央集権的国家機構ちゅうおうしゅうけんてきこっかきこう。律・令は法典の名で、古代中国の制度を採りいれたものですが、日本独自の部分もありました。
※2 「畿」は「みやこ」の意で、政権所在地周辺の特別地域のこと。
※3 「東海道」と聞くと「東海道五十三次」を思い浮かべる方も多いと思いますが、この場合は、江戸時代に整備された五街道(東海道・中山道(なかせんどう)・日光(にっこう)道中・奥州(おうしゅう)道中・甲州(こうしゅう)道中)の一つで、五畿七道の道とは異なります。
いつから「北海道」という名称(めいしょう)になったのですか?
明治めいじ2年(1869)です。8月15日の太政官布告だじょうかんふこくで、「蝦夷地えぞち自今いまより北海道ト被稱しょうされ十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出おおせいだされ候そうろう事」と周知されました。
この布告の出される以前は、「蝦夷えぞが島」「蝦夷地えぞち」などと呼よばれていました。「蝦夷」とは、華夷思想かいしそう※4に基づく異い民族の呼称こしょうです。したがって、「蝦夷地」とは「異民族の住む地」ということになります。
日本には、北の境の概念がいねんが希薄きはくだったのですが、江戸えど時代後期以降いこう、ロシアの進出に伴ともなって意識せざるをえなくなりました。いつまでも「蝦夷地」ではいけないので、新名称をつけるべきであるという意見は、江戸時代末期から多かったようです。しかし、それが実現したのは明治になってからのことでした。これにより、北海道が日本の版図はんとであることが、内外に宣言されたのです。
※4 中華(ちゅうか)思想とも。古代中国で、自国・民族を「華」として尊たっとび、異民族を東夷とうい・西戎せいじゅう・北狄ほくてき・南蛮なんばんなどと称して卑いやしみしりぞけた思想。日本など中国の周辺国に、広くその影響がおよんでおり、古代日本でも、みやこを中心とする地域を「華」とし、王権のおよばない地域を夷狄いてきとして、征服を正当化する思想となっていました。
北海道という名前の由来は?
幕末ばくまつの探検たんけん家として名高い松浦まつうら武四郎たけしろうが名付け親とされています。
松浦は、明治2年に道名に関する意見書を提出し、6つの道名候補こうほをあげました(日高見ひたかみ・北加伊ほっかい・海北・海島・東北・千島)。このうち、「北加伊道」の「加伊」を「海」と変更へんこうして「北海道」となったとされています。松浦の意見書では、「加伊(カイ)」とは「夷い人」の自称じしょうであると説明されています。
すでに古代から、東海道、西海道、南海道などがあったので、北海道という名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか。
ところで、松浦はみずから「北海道人」と号していたこともあるので、結果的には、松浦の雅号がごうが道名になったとも言えるでしょう。
なぜ北海道だけ「道」なのでしょう?
北海道だけが、「道どう」でひとつの行政単位になっているからだと考えられます。
上に書きましたとおり、「道」は「国」よりも広い地域です。江戸時代の「藩はん」は、ほとんどが「国」よりずっと小さいものでした。明治4年に廃藩置県はいはんちけんが行われた直後は、3府302県もありました。現在の県は「国」をいくつか含むような広さですが、それでも「道」よりは小さいものです。
北海道の場合も、北海道と命名された時に、11カ国が設定されましたが、「国」が独立した行政区域くいきとされることはありませんでした。明治初年、「開拓使かいたくし」という官庁が設置されましたが、その管轄かんかつ対象は、北海「道」という地域全体でした。
ところで、北海道にも県が存在した時期があることをご存じでしょうか?
開拓使は、十年計画のもと開拓を推進すいしんしました。十年計画が満了まんりょうすると、函館はこだて県、札幌さっぽろ県、根室ねむろ県の3つの県が、北海道に誕生たんじょうしました。※5
しかし、官吏かんりの数ばかり増えて非効率的だとか、開拓の実じつがあがっていないという批判ひはんが多く、内閣ないかく制度発足にともなう機構改革きこうかいかくを機に、3県は廃止はいしされ、再び北海道全体を管轄対象とした「北海道庁ちょう」が設置されました。以来、北海道は全体で一つの行政区域となっています。
第二次世界大戦後は、北海道も他の都府県とならぶ普通ふつう地方公共団体となりました。名称変更めいしょうへんこう、配置分合はいちぶんごう、境界変更きょうかいへんこうをすることも可能ですが、そのためには、法律ほうりつで定める必要があります。
※5 蝦夷地(北海道)には、道南を根拠地とする「松前藩まつまえはん」が、ほぼ近世を通じて存在していました。(江戸時代後期に蝦夷地の幕府直轄ちょっかつに伴って本州に移封いほう《領地替え》になったり、幕末維新期の箱館戦争で榎本武揚えのもとたけあき軍に攻撃されて藩主が津軽に敗走した時期を除きます。)
明治2年6月の版籍奉還はんせきほうかんで松前藩は館藩たてはんと改称し、明治4年7月14日の廃藩置県で館県たてけんとなり、9月9日には弘前県ひろさきけんに併合へいごうされました。弘前県は同月23日、青森県となりました。したがって、北海道には、館県、弘前県、青森県という3つの県も存在したことになります。
青森県は、再三、松前地方の管轄かんかつの免除を願い出、開拓使も同地方の管轄を願い出たため、明治5年9月20日、同地方は開拓使の管轄に移されることとなりました。
(閲覧室)
北海道の「道(どう)」って何ですか?
「道(どう)」というのは、律令国家りつりょうこっか※1の地方行政の基本区分です。起源きげんは古代中国で、それにならって日本でも天武朝てんむちょう(7世紀後半)に成立しました。
みやこに近い5つの国(山城やましろ、大和やまと、河内かわち、和泉いずみ、摂津せっつ)を畿内きない※2五カ国とし、それ以外を7道(東海道・東山とうさん道・北陸道・山陰さんいん道・山陽道・南海道・西海さいかい道)に分けました。それぞれの「道(どう)」には、いくつもの「国」がありました。たとえば東海道※3には、三河国みかわのくに、遠江国とおとうみのくに、駿河国するがのくになどが含ふくまれていました。また、それぞれの「道(どう)」ごとに、国府こくふを連ねる官道かんどうが、みやこから放射状ほうしゃじょうに設けられていました。
つまり、五畿七道ごきしちどうの「道(どう)」は、「国」をいくつも含むような広い地域ちいきであり、また「道(みち)」でもあったのです。
ところで、五畿七道のなかに「北海道」がないことにお気づきでしょうか。
※1 7世紀後半から9世紀頃までの、天皇を中心とした体系的な中央集権的国家機構ちゅうおうしゅうけんてきこっかきこう。律・令は法典の名で、古代中国の制度を採りいれたものですが、日本独自の部分もありました。
※2 「畿」は「みやこ」の意で、政権所在地周辺の特別地域のこと。
※3 「東海道」と聞くと「東海道五十三次」を思い浮かべる方も多いと思いますが、この場合は、江戸時代に整備された五街道(東海道・中山道(なかせんどう)・日光(にっこう)道中・奥州(おうしゅう)道中・甲州(こうしゅう)道中)の一つで、五畿七道の道とは異なります。
いつから「北海道」という名称(めいしょう)になったのですか?
明治めいじ2年(1869)です。8月15日の太政官布告だじょうかんふこくで、「蝦夷地えぞち自今いまより北海道ト被稱しょうされ十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出おおせいだされ候そうろう事」と周知されました。
この布告の出される以前は、「蝦夷えぞが島」「蝦夷地えぞち」などと呼よばれていました。「蝦夷」とは、華夷思想かいしそう※4に基づく異い民族の呼称こしょうです。したがって、「蝦夷地」とは「異民族の住む地」ということになります。
日本には、北の境の概念がいねんが希薄きはくだったのですが、江戸えど時代後期以降いこう、ロシアの進出に伴ともなって意識せざるをえなくなりました。いつまでも「蝦夷地」ではいけないので、新名称をつけるべきであるという意見は、江戸時代末期から多かったようです。しかし、それが実現したのは明治になってからのことでした。これにより、北海道が日本の版図はんとであることが、内外に宣言されたのです。
※4 中華(ちゅうか)思想とも。古代中国で、自国・民族を「華」として尊たっとび、異民族を東夷とうい・西戎せいじゅう・北狄ほくてき・南蛮なんばんなどと称して卑いやしみしりぞけた思想。日本など中国の周辺国に、広くその影響がおよんでおり、古代日本でも、みやこを中心とする地域を「華」とし、王権のおよばない地域を夷狄いてきとして、征服を正当化する思想となっていました。
北海道という名前の由来は?
幕末ばくまつの探検たんけん家として名高い松浦まつうら武四郎たけしろうが名付け親とされています。
松浦は、明治2年に道名に関する意見書を提出し、6つの道名候補こうほをあげました(日高見ひたかみ・北加伊ほっかい・海北・海島・東北・千島)。このうち、「北加伊道」の「加伊」を「海」と変更へんこうして「北海道」となったとされています。松浦の意見書では、「加伊(カイ)」とは「夷い人」の自称じしょうであると説明されています。
すでに古代から、東海道、西海道、南海道などがあったので、北海道という名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか。
ところで、松浦はみずから「北海道人」と号していたこともあるので、結果的には、松浦の雅号がごうが道名になったとも言えるでしょう。
なぜ北海道だけ「道」なのでしょう?
北海道だけが、「道どう」でひとつの行政単位になっているからだと考えられます。
上に書きましたとおり、「道」は「国」よりも広い地域です。江戸時代の「藩はん」は、ほとんどが「国」よりずっと小さいものでした。明治4年に廃藩置県はいはんちけんが行われた直後は、3府302県もありました。現在の県は「国」をいくつか含むような広さですが、それでも「道」よりは小さいものです。
北海道の場合も、北海道と命名された時に、11カ国が設定されましたが、「国」が独立した行政区域くいきとされることはありませんでした。明治初年、「開拓使かいたくし」という官庁が設置されましたが、その管轄かんかつ対象は、北海「道」という地域全体でした。
ところで、北海道にも県が存在した時期があることをご存じでしょうか?
開拓使は、十年計画のもと開拓を推進すいしんしました。十年計画が満了まんりょうすると、函館はこだて県、札幌さっぽろ県、根室ねむろ県の3つの県が、北海道に誕生たんじょうしました。※5
しかし、官吏かんりの数ばかり増えて非効率的だとか、開拓の実じつがあがっていないという批判ひはんが多く、内閣ないかく制度発足にともなう機構改革きこうかいかくを機に、3県は廃止はいしされ、再び北海道全体を管轄対象とした「北海道庁ちょう」が設置されました。以来、北海道は全体で一つの行政区域となっています。
第二次世界大戦後は、北海道も他の都府県とならぶ普通ふつう地方公共団体となりました。名称変更めいしょうへんこう、配置分合はいちぶんごう、境界変更きょうかいへんこうをすることも可能ですが、そのためには、法律ほうりつで定める必要があります。
※5 蝦夷地(北海道)には、道南を根拠地とする「松前藩まつまえはん」が、ほぼ近世を通じて存在していました。(江戸時代後期に蝦夷地の幕府直轄ちょっかつに伴って本州に移封いほう《領地替え》になったり、幕末維新期の箱館戦争で榎本武揚えのもとたけあき軍に攻撃されて藩主が津軽に敗走した時期を除きます。)
明治2年6月の版籍奉還はんせきほうかんで松前藩は館藩たてはんと改称し、明治4年7月14日の廃藩置県で館県たてけんとなり、9月9日には弘前県ひろさきけんに併合へいごうされました。弘前県は同月23日、青森県となりました。したがって、北海道には、館県、弘前県、青森県という3つの県も存在したことになります。
青森県は、再三、松前地方の管轄かんかつの免除を願い出、開拓使も同地方の管轄を願い出たため、明治5年9月20日、同地方は開拓使の管轄に移されることとなりました。
(閲覧室)
なるほど。よくわかる説明だったよ。
ちなみに、『蝦夷』という名称、今度、違うシリーズの記事に出てくるから、よく覚えておくようにo(・x・)/
では、また。
ちなみに、『蝦夷』という名称、今度、違うシリーズの記事に出てくるから、よく覚えておくようにo(・x・)/
では、また。
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