2016年10月23日日曜日

世の中にあふれるウソ その9 聖徳太子はいない(2)

聖徳太子像(菊池容斎作)
前回、聖徳太子=厩戸王が、ろくな死に方をしていない。謀略で死んでいるのでは。と書いた。

厩戸王、多分ろくな死に方をしていない。でも、死後、祭られるべき謀略があった、それは確かなことなのだと思う。それをリーゼンなりにまとめてみたい。

時代背景や史実の解釈。これも歴史学者により、全くことなる。そもそも、706年頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇、『古事記』(712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀(720年)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳豊聡耳法大王法主王東宮聖徳と記されている。
聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て(751年)に編纂された『懐風』が初出と言われる。これ以降、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記されており、「厩戸」「豐聰耳」などの表記はない。その上、実は、聖徳太子&蘇我氏興隆の時代に編纂された「国記」「天皇記」が乙巳の変(リーゼンの時代の教科書では、「大化の改新」という。現在は蘇我氏をクーデターで滅ぼした事件は「乙巳の変」、その後の政治改革を「大化の改新」と呼ぶ)で蘇我一族が殺された際に、館につけられた火で燃えてしまい、現存していないのだ。

乙巳の変
 ということは、基礎資料が、蘇我氏を滅ぼした、政敵・藤原氏により編纂された史実によるので、全く持って厩戸王や蘇我氏の本当の姿が記述されていない可能性が高いのだ。

 藤原氏時代の史実において、蘇我氏がいかに貶めて書かれているかは蘇我氏の名前にも及ぶ。

蘇我稲目ごろから台頭する蘇我氏において、興隆を誇ったのは、「蘇我馬子」「蘇我蝦夷」「蘇我入鹿」の3人だが、そもそも、「蝦夷」→これはあきらかに蔑称だと思う。誤解なきようにしておくと、古来の言葉で「えみし」とひらがなで書くと、これは、勇敢なもののふ、というような意味があり、名前につけられたことも多い。問題はどう漢字化するかだ。「蝦夷」という漢字、はあきらかな蔑称で、名前につけられることは少ない。もしよい意味でつけるとしたら、「毛人」(「えみし」と読む)とつけるべきなのだ。「毛人」のえみしさん、なら貴人にかなり存在する。
そのような理由で、リーゼンは、自分たち好みに編纂すべく、藤原氏により、意図的に漢字をつけかえて蔑称扱いしたと思っている。
あと二人についても漢字を入れかえると「馬鹿」。「馬鹿」は知ってのとおりの意味。 最も日本では鎌倉時代から、「無知」を表す言葉として使われたのだが、もともとは『史記(秦始皇本紀)』の故事『鹿をさして馬となす」からきており、別章で説明する予定だが、「聖徳太子はいない(1)」で出てきた、渡来人の子孫と言われる藤原氏、または影のフィクサー、秦氏もまた渡来人と言われているので、この故事をしっていた可能性は高い。
 
よって蘇我氏3人共に、藤原氏に意図的に貶められたことは間違いないと思われる。

どうしてここまで貶められたか。それはその後で一番得した人や団体が誰かを考えれば、あぶりだせることである。乙巳の変で得した人。表立っては『藤原氏』、裏では『秦氏』が一番徳をしている。『藤原氏』は乙巳の変のあと、江戸時代まで表で政治を牛耳った一族なわけだし、秦氏は裏で牛耳った一族。つまりは、蘇我氏はいいように踏み台にされたと、言い切ってもよい。

この 乙巳の変につながる事件こそが、聖徳太子と関連性がある。そのあたりは、聖徳太子はいないシリーズのどこかで話すね。

では、またね。

0 コメント:

コメントを投稿