聖徳太子像(菊池容斎作) |
厩戸王、多分ろくな死に方をしていない。でも、死後、祭られるべき謀略があった、それは確かなことなのだと思う。それをリーゼンなりにまとめてみたい。
時代背景や史実の解釈。これも歴史学者により、全くことなる。そもそも、706年頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇、『古事記』(712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀(720年)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されている。
聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。これ以降、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記されており、「厩戸」「豐聰耳」などの表記はない。その上、実は、聖徳太子&蘇我氏興隆の時代に編纂された「国記」「天皇記」が乙巳の変(リーゼンの時代の教科書では、「大化の改新」という。現在は蘇我氏をクーデターで滅ぼした事件は「乙巳の変」、その後の政治改革を「大化の改新」と呼ぶ)で蘇我一族が殺された際に、館につけられた火で燃えてしまい、現存していないのだ。
乙巳の変 |
藤原氏時代の史実において、蘇我氏がいかに貶めて書かれているかは蘇我氏の名前にも及ぶ。
蘇我稲目ごろから台頭する蘇我氏において、興隆を誇ったのは、「蘇我馬子」「蘇我蝦夷」「蘇我入鹿」の3人だが、そもそも、「蝦夷」→これはあきらかに蔑称だと思う。誤解なきようにしておくと、古来の言葉で「えみし」とひらがなで書くと、これは、勇敢なもののふ、というような意味があり、名前につけられたことも多い。問題はどう漢字化するかだ。「蝦夷」という漢字、はあきらかな蔑称で、名前につけられることは少ない。もしよい意味でつけるとしたら、「毛人」(「えみし」と読む)とつけるべきなのだ。「毛人」のえみしさん、なら貴人にかなり存在する。
そのような理由で、リーゼンは、自分たち好みに編纂すべく、藤原氏により、意図的に漢字をつけかえて蔑称扱いしたと思っている。
あと二人についても漢字を入れかえると「馬鹿」。「馬鹿」は知ってのとおりの意味。 最も日本では鎌倉時代から、「無知」を表す言葉として使われたのだが、もともとは『史記(秦始皇本紀)』の故事『鹿をさして馬となす」からきており、別章で説明する予定だが、「聖徳太子はいない(1)」で出てきた、渡来人の子孫と言われる藤原氏、または影のフィクサー、秦氏もまた渡来人と言われているので、この故事をしっていた可能性は高い。
よって蘇我氏3人共に、藤原氏に意図的に貶められたことは間違いないと思われる。
どうしてここまで貶められたか。それはその後で一番得した人や団体が誰かを考えれば、あぶりだせることである。乙巳の変で得した人。表立っては『藤原氏』、裏では『秦氏』が一番徳をしている。『藤原氏』は乙巳の変のあと、江戸時代まで表で政治を牛耳った一族なわけだし、秦氏は裏で牛耳った一族。つまりは、蘇我氏はいいように踏み台にされたと、言い切ってもよい。
この 乙巳の変につながる事件こそが、聖徳太子と関連性がある。そのあたりは、聖徳太子はいないシリーズのどこかで話すね。
では、またね。
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