2016年10月31日月曜日

世の中にあふれるウソ その9 聖徳太子はいない⑶



前回、聖徳太子について、陰謀のもと、殺された可能性が高いとの推察、そして、聖徳太子と関係の深い蘇我氏についても、かなり藤原氏により真実ではない史実となっているだろう、と切り込んでみた。

今回はさらにいっちゃうぞ。邪馬台国について、だ。資料の少なさと、肝心なとこが空白となっおり、歴史家の中でも意見真っ二つどころか、お互いの揚げ足を取り合ってる感の強い、論争やから今ひとつすっきりしとらん。リーゼンなりにいろんな本読んで、推論して、大和朝廷までの流れを構築できたよ。

そのあたりを話してみるね。

さて、写真は金印公園のある、志賀島。これを授かったのは誰か。




邪馬台国はどこにあったのか?畿内か九州か…意見が真っ二つにわかれ、まだ結論が出ないから、日本の古代史はむちゃくちゃなのだ。



邪馬台国の位置について。リーゼンとしては、まずは九州にあった「クニ」こそが、魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」だと断定する。

その理由をまずは、信頼できるサイト(知り合いなので)で知ってほしい。

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-158/

九州説ではなく、畿内説もあるが、根拠の水行の日数は、上記のHPの通り、無視する前提で。なぜなら、水行の日数、畿内説にあてはめても、かなり強引だから、これは無視してもよいのだ。あとは銅鏡の数。これは後で話をするが、畿内にも違う「クニ」があったと考えれば、すっきりするのだ。つまり、邪馬台国以外にも、大きな「クニ」があり、銅鏡については略奪、または贈与されたとすれば、これは納得できる。だから、九州にあったと断定してよいのだ。


まずは邪馬台国、すっきりさせてほしい。畿内ではないと考えないと、聖徳太子の時代の混乱した史実は解き明かせないからね。

今回はここまで。

では、またね。



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