2016年10月6日木曜日

世の中にあふれるウソ その5




歴史の教科書、リーゼンの時代からの変更がひどすぎて、せっかく必死に覚えた知識が、こんなものだったかと、ある意味おかしく思えたりもする。
長編ドラマ『坂の上の雲』でも、明治時代は人々が高揚感を持ち過ごしていた時代でもあったと、述べられているが、我らがおそらく面白いと思っていた中世史は、実はそんなでもなく、実は現代史の方が面白いのでは、と思うことがある。現に、古代から歴史を教える先進国は日本ぐらいで、大体は現代史から遡るのがベーシックだし、リーゼンが先日、図書館で借りて読んだ、山川出版の現代史の教科書、確かに面白いし、自分につながる歴史感覚なので、わかりやすいのだ。


だから、やはり日本は何かぼやかしている史実があり、そのことで利を得てきた、おそらくは政治の中心的存在が綿々と存在し続けている、と思ったりもするのだ。


リーゼンがずっとかかわっている、封じられた神様研究についても、やはり、それらの人為的な史実操作に基づくものなので、おどろおどろしい一面もあり、また人間くささも合わせ持っている。そのあたりがおもしろいんやけどな。


さて、聖徳太子へとなかなか行き着かなくて、もやもやが溜る、おとぼけ新聞読者でしょうが、あと少しだけ、寄り道するよ。

でないと、リーゼンの考察が、「あっ、そうなんだ」で、終わったしまうからや。


歴史は史実を忠実には記しておらず、おそらくは権力者、政治にかかわってきた一族あたりの都合で記された書を元に、作られたものなんで。

読む人の自分なりの歴史感覚や、生き方の指針がいるわけだよ。そもそも、そんな権力者や政治にかかわる一族の人じゃなければ、その根底にひそむ必然性にも気づかんやろうしな。都合よくだまそうとしている、彼らにだまされるだけに終わるんや と思うぜ。


さて、次も、見事にだまされた教科書の絵について紹介するよ。

では、またね。



0 コメント:

コメントを投稿